お笑い番組に出ている芸人の「3の倍数になるとアホになる」という芸は許せない。というより、これを「芸」と言ってはいけないと思う。スタジオではゲストも客席も「アホ」になった顔を見て笑っているが、これで笑うということは倫理的におかしいと思う。障害者の方々、顔面神経麻痺の方々の気持ちを考えたら、このような程度の低い笑いをテレビで放送することが適切か不適切かはすぐに分かると思う。放送局は、テレビを見ている青少年への影響も真剣に考えるべきだ。
ナベアツが演じるアホは、目の玉のひっくり返し気味に視線を泳がせつつ、顔の一方を引きつらせる表情が基本で、さらに、手足をぶらぶらさせて「アホ」を強調することがある。表情と形でシンプルに笑いの刺激を与えつつ、算数との組み合わせた意外性があり、繰り返しのリズムが癖になる、なかなか洒落たネタなのだが、ナベアツによる「アホ」の表現はある種の人にはたまらないだろう。
ある種の人とは、たとえば、「ナベアツのアホ」を表情に持った障害児を持つ親だ。
ただし、たとえば障害児や障害児の親が不快な思いをするから、ナベアツはこのネタを封印すべきだとは思わない。
言葉や表現を狩っても不毛であり、一人一人が持っている差別意識を忘れさせているに過ぎない。問題は意識自体の方にある。不格好だとする対象を笑いたい意識は心の中にあるのだから、せめて、それを忘れないことだ。
障害者差別を声高に叫ぶ人ほど、障害者を「特別扱い」する傾向がある。私は知人の女性から、駅で知的障害者の男性に抱きつかれたという話を聞いたことがある。驚いた女性は、その抱きついた人を力を込めて押しのけた。至極、当たり前の行動だろう。しかし、その男性の付き添いの方には怒鳴られたそうだ。「この子は障害者なのよ!」と。つまり、障害者だから許せというのだ。
どのようなことをすれば良い方向に進むのか、それは私にも分からない。しかし、このようなことを続けていけば、心の中にある見えない差別はより強くなってしまうだろう。
最近、こういった障害者を差別しているから云々という意見をよく耳にする。「しょうがいしゃ」という言葉も、「障害者」から「障がい者」に変わろうとしている。「害」という字に悪いイメージがあるため、本人や家族に不快感に与えてしまう恐れがあると言うのがその理由だ。私は思う、そこに何の意味があるのだろうか? と。
「障害」の表記は1949年の身体障害者福祉法の制定を機に一般的に使われるようになった。 「障害」、「障礙(碍)」のうち、「礙(碍)」が当用漢字の使用制限によって法律では使えなくなったことにより、「障礙」と意味が同じ「障害」という語が採用された。
障害児サイドの視点を一つ補足すると、自分の奇行や表情などを「笑われる」対象として納得して受け入れることが出来れば、他人との関わりを上手くやっていく上で、大きな強みになることがあります(これは普通の人のコンプレックスもそうかも知れませんね)。親も子も、障害は個性だと言い切って、そこまでできると、確かに強くなります。出来るなら、目指したい境地です。
「それじゃあ10秒以内にパンツはいて下さい。よーい・・・ドン!」
って言うと喜んでパンツを履き始める。
「10,9,8,・・・・」
とカウントダウンをしてあげれば効果は倍増。10秒以内にパンツをはいて得意満面の顔になる。
ただこれは急いで何かをやらせたいときには使えるけど、しっかり体を洗わせたり歯磨きをさせたりするのには使えない。それにいつまでも「よーい・・・ドン!」は使えない歳になってきているから別の方法を考えないといけないかもしれない。
]]>感覚的なもので恐縮だが、多くの人が17歳の若者を救う選択をするのではないかと思う。そしてこれは「95歳の老人を殺す」選択を(「殺す」事に関しては無意識かもしれないが)していることになる。
さて、今度は95歳の老人の代わりに「17歳の知的障害者」をその対象とした場合どうかを考えてみる。障碍児の父である私からすると納得出来ないものではあるけれどもやはり多くの人は95歳の老人と同じ選択をするのではないかと予想出来る。良い悪いは別としてこれは十分予想されることだ。「しかたない」と言うひとは決して少なくないはずだ。彼らが「しかたない」と思う理由もいくらでも想像出来る。(ただ、この手の例は知的障碍者だけではない。ホームレスは?犯罪者は?在日外国人は?もっとあるかも知れない)
そしてこの「命の重さ議論」は障碍者の間でも十分に発生する可能性がある。重度と軽度、知的障碍と身体障碍等々。同じ人間なのにね。
自分も含め多くの障碍者の両親は、子供の障害児であるがゆえの不幸を「しかたがない」と思ってしまう部分がゼロではないのではないかと思う。「どちらを生かすか?」の例でも無理矢理「しかたがない」と諦める親もいるかもしれないし、自分はそういう人を責めるほど立派な人間でもない。
だから自分は誓う。自分の子供は障碍による全ての不幸や差別に対して絶対に納得しない。「しかたない」などと決して思わない。優秀なスポーツ選手や芸能人、学者や政治家と同じ人間であり、自分の子供がその障碍のために幸福になる権利を侵害されることを認めない。少なくとも今、自分の子供を心から愛し、守ることが出来るのは私たちしかいないのだから。
「誰かに心から愛されている」といのは幸せの十分条件だと思う。だから愛されていない人はお金持ちだろうが社会的地位が高かろうが不幸なのだ。自分は死ぬまで子供の事を愛していく。それは健常者の親と何も変わらない行為だよね。
]]>ARTIFACT@ハテナ系:「テレビに出ない知識人なんてブロガー以下だと思う」by宮崎哲弥氏
朝日新聞の12/15夕刊で、宮崎哲弥氏がテレビやラジオに出演することについて語っていた。論壇共同体が消え、知識人が無力化している現状では、影響力を担保するにはテレビに出る必要がある。500部ぐらいしか出ない書籍でどうやって社会を動かすのか。テレビに出ない知識人なんてブロガー以下だと思う。
宮崎氏は発達障害に理解のある知識人で、個人的には良い印象のほうが強い。昨今、橋下弁護士の懲戒請求呼びかけ事件に関して橋下弁護士を擁護しまくりだったのはちょっと引いたが(最近は慎重派になったらしい)、まっとうな評論家というのが私の評価だった。
しかし、今回の「テレビに出ない知識人なんて」というのは、自身がテレビに出る事の良い訳をしている感が拭えない。彼の中には特定の知識人がいて、その彼(ら)の事を指摘していのかもしれないが、テレビに出ている「知識人」でもトンデモないのが沢山いるのは宮崎氏が一番良く分かっているだろうに。
小田晋という精神科医は、今の日本で最もテレビに出演する精神科の「知識人」のひとりだろう。しかし、彼がテレビに良く出るのは彼が優秀な精神科医だからではない。
彼がテレビ局にとって「非常に都合のいい」精神科医だからだ。
小田氏は殺人事件の犯人について殆どなんの予備知識(せいぜいテレビ局が用意したプロフィールくらい)で実に細かな鑑定/診断を行ってくれる。しかもテレビ局側の空気を読んだ「美味しい鑑定」が得意だ。先日の長崎佐世保スポーツクラブ乱射事件でも犯人のプロファイリングでとんでもない事を言って笑い者になっている。
まっとうな精神科医なら会話すらしていない人間の病名などテレビで無責任に口にする事などない、しかし小田氏はその辺の羞恥心がないのか平気で「精神科医としての感想」をペラペラしゃべる。
テレビ局や新聞社も「話してくれないまともな医者」より「なんでも話すトンデモ医者」のほうが使いやすい。読者や視聴者もこういう医者の話を読んだり聞いたりして「やっぱりねぇ。怖いわねぇ」と納得しその内容を疑おうともしない。こうしてまともな精神科医は口を閉ざし、トンデモさんが「知識人」としてテレビにはびこる事になるのだ。(宮崎氏はまともな評論家であると思いたいが)
本当はまっとうな仕事をしている精神科医だってテレビに出てまっとうな内容の発言をしたいと思っているはずだが、テレビや新聞では正確な内容は短時間で簡単に伝える事は出来ないし、そんな事に時間や金を使ってくれる新聞社やテレビは現状では非常に少ない(多分無い)。会った事も話した事もない殺人者の診断なんてまともな精神科医は出来ないのにそれをしないとテレビに出れない。本当に犯人を診断した医師なりカウンセラーは守秘義務があるから本当の事は話せないことも有るだろうし。
そういう状況を考えれば少なくとも自閉症や広汎性発達障害の事で正しい情報を発信しようと思ったら、現状では本を書くか、ブログを書くかがいいんじゃないかと思うけどどうだろう。(以前、宮崎氏がテレビで発達障害の事ををかなり正確な認識のもとに発言しているのを見て驚き、そして感謝したことがあるのだが、あえてこう書いてみるのだが・・・)
私のおすすめはこのブログ
「こどものおいしゃさん日記」
テレビでは取り上げられないようなまっとうな知識人の意見がブログでは沢山見つける事が出来るのだ。
ただ宮崎氏の発言の全部を読んだわけではないので、私の勘違いもあるかもしれない。その時は訂正したいと思う。
]]>
動画ではらばQさんの字幕(アメリカ国家の英語字幕)が入ってます。
もうひとつは、この自閉症者の両親(若しくは保護者)。自分の子供が自閉症の場合、日本人の親だったらまず人前に出したいと思わない。それを勇気をだして何万人が注目する状況の中へ自分の子供を送り出したのはひとつめに挙げたような国民性だから出来たのかもしれません。それでも・・・やっぱりすごいと思う。
もしかしたら子供がパニックになるかも知れないけど、その時はちゃんと対応方法を考えてあったんだろうなぁ。歌が止まってしまったときの両親の心境はもうほんと痛いほど分かる。
そして最後は、自閉症者に始球式で国家を歌わせようと考えた球場関係者。何かあったら非難されるかもしれない状況でそれをよく企画したと思う。知的障碍と身体障碍では人の受け取り方が違うのは当たり前で、単に「障碍者も参加してますよ〜」というメッセージを送りたいのなら身体障碍者で良かったかもしれない。
映像を見る限りでは決して軽度とは言えない自閉症者にメジャーリーグの始球式で歌を歌わせる事を企画し、それを承認した関係者を心から讃えたいと思う。なんかあったら何か言われるだろうし(実際、この自閉症者は途中で国家が歌えなくなってしまったわけだしね)。
もう、アメリカという国の懐の深さは日本の比ではないんだなぁと思う。
らばQさんが訳したDiggのコメントの一つ
いろんなことが起こる中、アメリカ人であることを誇りに思えたわ
Diggのコメント
despite everything going on, makes you proud to be an american.
広汎性発達障碍の子供を持つ父親として"proud to be an Japanese."と思える日が来るとはあまり思えないのは少し寂しいけれど、この映像を見てそういう人が少しでも増えて欲しいと思う。
アメリカ人に敬意を評してアメリカ国家(The Star-Spangled Banner)を引用。
O say, can you see, by the dawn's early light,
(日本語訳星条旗)
What so proudly we hailed at the twilight's last gleaming?
Whose broad stripes and bright stars, through the perilous fight,
O'er the ramparts we watched, were so gallantly streaming!
And the rockets' red glare, the bombs bursting in air,
Gave proof through the night that our flag was still there:
O say, does that star-spangled banner yet wave
O'er the land of the free and the home of the brave?おお、見ゆるや 夜明けの淡き光を受け
先の夕暮れ 陽が落ちる時 我等が歓呼しもの
其は太き縞と輝く星なり 危き戦の間
塁壁の上に見たり 勇壮に翻りし 彼の旗/
狼煙の赤き炎立ち 砲音宙に轟く中
耐え抜き 旗は猶其処に在り
おお、星散りばめたる旗は 今猶棚引くや
自由なる大地 勇者の故郷に
さて東大に盲ろう者の先生がいてその先生の話がすごかったのでリンク。
平成19年度入学式(学部)祝辞 平成19年(2007年)4月12日 先端科学技術研究センター准教授 福島 智 http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/b_message19_03_j.html
この方は初めは目も耳も聞こえていたのが最初に目を、次に耳の機能を失ってしまったとのこと。初めから見えない、聞こえない人もいると思うのだけれど、前者により「恐怖」を感じてしまう。
だから福島さんと言う人は本当にすごいなぁと思う。
この話を知ったのは中村正三郎さんのブログから。お母さんの話でちょっといい話です。お子さんが確かダウン症だったと思う。障碍者の子供を持つ事で子供からいろいろな事を学んでいるという正三郎さんの言葉を私はいつも大切にしている。かっこいいなぁと思う。
]]>最近は本当に嘘ばかりつく(と言ってもバレバレなんだが)のでちょっと疲れるがまあいいだろう。嘘をつくとどうなるかは少しずつ分かってきている感じもあるし。勿論嘘をついた時はしっかり怒ります。
あたりまえの話、障碍の度合いにもよるのだろうが嘘を付く障害者はいっぱいいるし性格の悪い障害者だっている。人殺しをする障碍者もいるし、人助けをする障碍者もいる。多分健常者と同じ様な割合で。だから、別に障碍者から性格が良い/悪い訳ではないし、障碍者だから犯罪を起こす/起こさない訳ではないのだ。
でもこの当たり前は結構当たり前ではなかったりする。「世間一般」では。
小児科医からして当たり前とは思ってないからね。どうにかしてほしい。
うちの子供はテレビゲームは好きだが体を動かすのはどちらかと言えば苦手になる。任天堂 Wiiが障碍を持つ子供にどういう影響を与えるか興味を持っている人もいるのではないだろうか?障碍がなくてもWiiが子供にどんな影響を与えるかは興味があるし、ほとんどゲームをしない私のような人間にも「ちょっとやってみようかな?」と思わせるだけの魅力がWiiにはある。これってすごい事だよな。
]]>子供を殺した親のニュースを聞くたびに「殺された子供は障碍があったのでは?」と思ってしまうのは私だけか?
私の場合、今まで自分の子供を自分で殺さずにこれたのは実は偶然とたまたまが重なっただけかも知れない。
・自閉症や発達障碍についてある程度社会的に理解がある時代に生まれた。
・障碍をある程度早い時期に見つける事が出来たため自分のこどもが障碍を持っている事を早く認識出来た。
・金銭的にある程度余裕がある家庭だった。(うちは共働きではありません)
・周りの人達や組織が障碍に対してかなり理解をしてくれた。
・その他いろいろな人が私たち家族をサポートしてくれた。
こういう私のような家庭もあれば全く逆の家庭もあるだろう。そういう家庭では親はどう子供と接しているのだろうか?
自分の子供に障碍がある事すら知らない親は子供の普通と違う行動の数々っは自分の育て方から来ていると思っているかも知れない。周りからいろいろと言われることもあるだろう。金銭的に余裕がなければ子供の面倒を十分見る事も出来ないし、環境の良い所(都会とか)に引っ越す事も難しい。その苦労は想像を絶するに違いない。何も知らない他人がとやかく言うレベルではないかもしれない。
「自分の子供を殺すなんて信じられない」をいう人達がこういう親の子供を引き取って育てるくらいの気持ちがあるのであれば私は多分何も言わない。でもそうではなく、こういう事を言う人達は十分安全な所から罪を犯した弱い人間を責めているだけだ。自分はそれに対してないもしないくせに。
親を責めるまえに地域社会(コミュニティー)を責めるべきではないですか?
実際私はコミィにティーに感謝しているし、繰り返しになるが今の環境がなければ、私は子供を殺していたかもしれない。
例えば子供が健常で金銭的にも余裕があり子育てをしていない親ならこういう言葉は簡単に出るのかも知れない。
新聞記者や雑誌記者、テレビのニュースがこういう視点で物を見ないのは自分たちが忙しくて子育てなんかした事ないが金は沢山持っててしかも健常の子供を持っているからではないだろうか?それとも「子供を殺す親は信じられない」という視点で語った方が視聴率が稼げるからか?多分両方だな。
ふーん、そんなこと言ってる人ってまだいるんだなぁと思ってしまうが
本人は至ってまじめだし善意から言っているから本当に質が悪い。
そもそも「現実と仮想の区別がつかない」状態ってのはどういう状態なんだろう?
100,000人ゲームをしている子供がいてそのうち「区別がつかなくなった」子供の割合はどのくらいなんだろう?
そしてゲームをしていないのにも関わらず「区別がつかなくなった」子供の割合はどのくらいなんだろう?
そういう臨床データなんぞ全くないほんと雰囲気だけで言ってるんじゃない?
もしかしたら「ウチの学校はゲーム一切させていませんのです」と言いたいからそんなこと言ってる?
こういうと必ず出てくるのが「ゲーム脳」なんだがリンクにある通りほぼ嘘、大袈裟、紛らわしいというしろもの。
むしろゲームは自閉症に子供にとって良い影響を与えるのではという考え方さえある。
こういう話を簡単に信じてしまうのが実は教育のプロだったりする現実が今わが家の目の前にある。
トンデモは意外と近くにいるのである。
自閉症は,世間の偏見や思い込みが病気の理解を遅らせてきた歴史がある。
私たち親は子供の主治医のつもりだ。
だから子供の教育については科学的に、そして今一番有効だと思われる方法を実践して行きたい。
それは学校のためでもなく、親のためでもなく、子供自身のために。
でも「かわいそう」って本当は大きなお世話な言葉だよな。
自分がかわいそうかそうでないかを他人がどうこう言うのはおかしいだろう?
そういう意味では他人の事を「幸せかどうか」なんて目で見る事自体失礼なことかも。
ひとつだけ言えるのはすごく親に愛されている子供を見ると障害の大きさに関わらず「ほっとする」こと。これも大きなお世話なんだろうけど。ただ単に他人の不幸を見たくないっていう。
いや難しいです。
]]>
子供は母親に怒られる時と父親に怒られる時でずいぶんと対応が違うようだ。
父親(私)が怒るときはもうすぐ泣いてしまう。母親のときは下を向いて「反省」って感じか。
子供を怒る理由って何だろう。怒ることで子供に成長してほしいからだろうか?
それとも単に親の怒り(いかり)を子供にぶつけているだけだろうか?
もし前者なら子供が成長する怒り方をしないといけない。子供が自分で本当に悪かったと思う
ようにしないといけない。ただ怒鳴るだけで子供が成長なんてするわけないもんね。
子供が楽しみにしていた外出だったのにちょっとだけ楽しくない想い出が出来てしまった。
来週の休みはまた別の所に遊びに出よう。こんどは100%楽しい想い出だけになるように。
式が終わってから普通級のほうの教室に戻って自己紹介やらなんやら。
ユキはもう飽きている感じで内心「早く終わってくれないかなぁ」と祈る。
自己紹介なんかユキには出来ないと思っていたけど不格好なりに何とか成功。
これにもほっとした。
普通級での自己紹介やらが終わってから予想していなかった特殊学級の紹介があった。
入ってすぐ普通級との違いに驚く。暗くてちょっと汚いのだ。
自分の子供がこれから6年間ここで過ごすと思うと心の底からゾッとした。
自分では受け入れているつもりだったユキの障碍だったが、「他の子供と違う」
ということを改めて実感させられる瞬間だった。
自分で自分の心拍が上がっているのがわかってつらかった。
ただユキのほうは「早く帰ってゲームがしたい」とは言うもののそれほどこの状況を
拒絶している訳ではなさそう。暗くても汚くてもまぁユキにとって居心地の良い場所で
あればそれでいいし、何よりやっぱり先生が良い人かそうでないかが一番大切だ。
今日はともかく新しいスタートの日でした。
]]>
と、いうわけでユキに英語キーボードを買ってやろうと思う。
やっぱりHHKか?小学生になったばかりだけど。
障碍があっても自分が嫌がられていたり、笑われていたりすることは十分理解できているので保育園に行きたくない気持ちは分かる。
でも「なぜ保育園に行きたくないの?」と聞かれて「馬鹿にされているから」とはやっぱり子供でも答えたくはないのだろう。そういう経験は自分にもある。
これからいろいろな事を経験していかなくてはいけない。つらい事も、悔しい事も。
それをなんとか「やり過ごす」術を身につけてくれたらと思う。
どうして?と聞くと
「宿題があるから」
普通ならそんな事を気にかけるのもばからしいのだけれどPDD-NOSだとちょっと考えてしまう。
ちょうどボーダーにいるのでやっぱり自分が「出来ない」のが分かるのだろう、多分。
親としては楽しんでくれるのが一番で勉強なんかどうだっていいのだが本人がそうじゃないとちょっと難しい。
案ずるより産むが易し
だといいのだけれど。
障碍者が自分より障碍のある者を差別する。
普通にあり得る話だが、そういう事を全く考えていなかった私は親失格だ。
ユキは大泣きしたあと
「パパ、ぼくってダメな子?」
と聞いてきた。
「ダメじゃないよ、それにダメな子なんていないんだよ」
と言ったが納得していない様子だった。
「じゃあ、ダメな子って誰?」と私が聞くと黙って自分を指差していた。
帰り道、ずっと話していたがちゃんと伝わっているだろうか・・・。
]]>